相談を受けて色々考えると
フト面白い発想が出てきた。
言葉は想いを表現したり伝える為に使うけど
心の「ある一つの部分」だけを確定させて言葉になって相手に伝わる性質がある。
でも心は常に変化しているし、考え方が変われば「逆もまた真なり」みたいに
心は不確定な確率(面積)みたいなモノで
それを言葉にすると確定した「点」でしかなくなる。
確定すると変化する心から見れば次の瞬間は別の考えなので
これはとても不便だ。
ネガティブや否定的な思考から答えを探す人は、否定的な言葉を発するので
本人が思っているよりも、かなり周囲にはストレスだし印象は悪い。
自分がどんな顔をしてどんな言葉を使っているのか
特に家族に対して自分を省みれる人は少ない。
言葉として確定する事の不便さを思うと
善や悪、良い事、悪い事も
そうと確定するところに便利さと同じ量の不便さがあるように感じる。
つまり怒ったり、叱ったりケンカしたり 相手が悪いと言葉や態度で確定すると
収集が大変。
言い過ぎたな~とか自分も悪いな~とかもあるし
話あってみると、両方たいして悪くなかった事もあるし。
いや両方正しい。つまり聖戦。神同士の終わらないジハード。
もっと言うと正しいや間違っているという言葉や文字を使う所に問題がある。
だから最初からどちらかが何も言わなければいい。
いや言ってもいい。収集頑張ってください。
ただ家は炎上。双方に傷は残り、子供はショックを受けるってだけ。
「我慢する」と書くと「じゃあ私が悪いのか?」となるので
「平気な顔でニコニコ黙っている」
ドイツ?の言葉で「今言うか一生口を閉ざすかのどちらか」という言葉が好き。
沢山の我慢と愛を棺桶の持って入れるのがカッコいい。
雄弁は銀、沈黙は金。
聖なる沈黙。
相手を思い通りにした所でその辺の石ころの裏と表くらいどっちでもいい事だし。
自分好みに生きれた所で何かの役に立っているわけでもなく。
相手の好きな形に合わせていたら、いつのまにかそれが自分のベーシックになっている。
偉そうにしてみても浜辺の砂粒ですから仲良く転がっているのが美しいのかなと。
と フト面白い発想が走ったので書いてみました。