常緑樹の剪定時期

常緑樹の剪定の適期です。

木を大幅に小さくしたい場合はこの時期がよいと思います。

また1年以上伸ばしてしまった常緑樹もバッサリ剪定できます。

良く伸びるプリペットやトキワマンサク、ウバメガシなどはこの時期に軸(幹)のみにしても

また芽が出てきます。

花が終わったツツジなども軸刈りしても大丈夫です。

よく伸びるレッドロビンやカシなどもバチコーンと切りましょう。

落葉樹もそこそこ切っても大丈夫です。

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芝刈り中に弾いた石が体に当たって痛いのですが

あまり気せずに作業してます。

今日はあまりに長く痛いので見てみると蜂に刺されてました。

で、そのあとの剪定で蜂が顔に接近してきたのでビビって逃げると

枯れた花びらでした。

あるよね~。

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またちょっと作業中にムダに思考をして一定の答えを得たので

メモです。

「絶対的に正しいものはあるのか?」について気になったので考えてみました。

全ての人や物は変化しているので多分、人やモノについては「無い」

けど人の「そうなりたいな~」とか「あの人はすごい」「あれは素晴らしい」

っていう一人一人の思いの中にだけ「存在する気になる」んじゃないかと。

思いや言葉は具現化できないのでそこに正しさは「存在する感じがする」んじゃないかなと。

けど、人やモノには多分存在しない。

神社のご神体は鏡 だったり パンドラの箱の底はカラで希望の文字が書かれてあるようなもので。

もし存在すると分析や比較されて、外からの評価基準が加わった瞬間、絶対的ではなくなるから。

言葉や思いなど曖昧なものが一方通行になり外から評価することがハバカられる状態になった時により存在する感じがするんだなと思いました。

また自分は真正面から信じていたモノに たまたま偶然タイミングよく「トカゲのしっぽ切り」に合いました。天地がひっくり返るような出来事でした。

自分の中にそれを理解、消化する必要があったし

それでも自分は正しくありたいと思ったので

10年以上もフツフツとこんな事を考えてそれも最近結論に近づいてる感じがします。

自分としては外部から囚われる事が大幅に減って自分の頭で自由に考えれるようになり

思慮と意思を得たので本当に運がよかったと思います。

お寺で学んだ事は人がどんな存在であるか客観的に見る事ができるので

自分を省みたり、人を理解する時、物事を多角的・マクロ的に考える時にとても役に立ちます。

神や仏から離れて自分でイチから信じていたモノを心理学的・科学的に見直して正しさの基準を再構築するのは恐怖と骨の折れる作業でした。

振り返るとそれが自分のアイデンティティ・バックボーンになっているのは面白いです。「正しくありたい」というベクトルは何ら変わらない所も面白いですね。

「船から落ちたら結構自分で自由に泳げて楽しかったしお金もかからなかった」

みたいな感じですかね。泳げたい焼きくん みたいな。

そういった意味で全ての縁に感謝してます。

やっぱ若い時に苦労したほうがいいですね。